20200314

昔,ぼく結構アニメ観てたんですよ。

 

瀬戸内のクソ田舎の出身なんで,まだ僕が中高生ぐらいの時はアニメとかオタク系のコンテンツってすごく蔑視されてるというか

 

まあ田舎だから(田舎を言い訳にするのはどうなんだ)やっぱり強いのはヤンキーとか,スポーツができる,いわゆるジョックというか

 

だから僕はアニメ観てるのも隠してたし,地元の商店街に一軒あったアニメイトにも一回しか入ったことなくて。

 

このアニメイトがこれまた立地が悪くて,マクドの前にあるんすよ。そんでマクドの2階からアニメイトの出入り口が見えるんですよ。だから入ったり出たりするところが見えちゃって。

 

「この前お前アニメイトから出てきてただろ。マクドの2階から見てたぜ」みたいなことをサッカー部のやつらが言うの見てたなー。

 

親もオタクは犯罪者予備軍みたいなイメージがなんとなくあった(のかな? 田舎は宮崎勤の影響がまだ強かったんすよ)ので,親からも隠れるように深夜1時とか2時とかにリビングに降りてアニメ見てて。オカンは息子が深夜2時とかに隠れるようにリビングで明かりもつけずにテレビでアニメを見てるから,心配してたんじゃないかな。

 

けどもう最近はアニメは一切観なくなりましたね。なんでなんだろうって思ってたんですけど,なんとなくもしかしたらって思ったのが「もうアニメは僕みたいな人を対象に作られていない」ってことなのかなって。というか「この層に向けて作ってます」っていうのがはっきりしてるというか。

 

 

『そこの層に入ってない人たちが観ようが観まいが知りませんよ,私たちはこれがもとから好きで,出せばDVDボックスやグッズを買ってくれることが決まってる人たちに向けて作ってますよ』って,感じてしまったんですよね。

 

もちろんアニメ会社の人たちがこんな突き放した考えをしてるだなんて思ってないし,もしそうだとしてもグッズやDVDを買ってくれるかどうか分からない人たちに向かって作品を作るっていうのは経済活動的にリスクがでかすぎると思うから,それはもうしょうがないことなんだなって思うんですよね。

 

もう風を吹かせたいのなら桶屋が儲かるまでのプロセスまでを描かなきゃいけない世の中なんだろうな。

 

だったら,そのプロセスに予期しない交絡変数は少ないほうがいいし,購買層が見えないようなコンテンツはリスクがでかいから作らないと思う。

 

だからもうオタクでもない僕がアニメを観たら「……なんだ?なんだなんだ?」ってなるのは当たり前かもしれない。アニメのターゲットの中に僕は入ってないから,僕に伝わるような構成や内容にはなってないと思う(ストーリーが分からないという意味じゃなくて……前提となってる"ノリ"があるって感じか……)

 

百合とかBLとかのアニメとか観ても「周囲と価値観が違う自分って……」とか「相手は自分の性志向についてどう思うんだろう……」とかがないからびっくりしちゃった。もう自然に自分も相手も好き合ってるのが前提なんだなって思って置いていかれちゃって,結局ついていけずに一話目とかでやめちゃったな……(まあ性志向で人を判断するのは野卑たる行為だと思いますけどね)

 

それでなくても相手と自分が無条件に好き合ってるって,なかなか前提として変っちゃ変だな。そういう意味では僕がまだアニメを見てた時期からすでになんか前提となる文脈が多分にあったんだろうな。

 

最近はアニメだけじゃなくて漫画でも映画でも音楽でも『こういう層に向けて作ってます』ってものが多いように(勝手に)感じてて,前提の文脈が無い僕にはよくわからないままのことが多くなってきて……。世の中がクラスタ分けされ始めてるんでしょうね。

 

多分,僕がいまだにテレビのバラエティ番組が好きなのはテレビバラエティはある程度全年齢向け……っていうと誤解を招くと思うんですけど,クラスタ関係なく幅広い人に向けて発信し続けてるコンテンツだからだろうなって。めちゃくちゃ共感したり引き寄せられたりすることはあまりない一方で,置いてかれてる感覚も感じないから安心して見れるというか。

 

あと,アニメだと京アニは変にクラスタ分けをしてなかった。百合やBL的なノリがあった響けユーフォニアムとかFree!が面白かったのは,百合やBLっていうクラスタ以外にも届くようなスポーツや部活,友情や恋愛といった人間関係といった共通するメッセージをちゃんと込めてたからだろうなって思う。多分,京アニの人はクラスタ関係なく誰が見ても面白いものを作りたいと思ってる気がするというか、少なくともそうあろうとしている気がする。

 

けど,クラスタに向けて作られたコンテンツを前提としてる視聴者からしたら,すごくまだるっこしいんだろうな。そんで,それはもうしょうがないんだろうな。例えば100人いたとして,共感度は違うかもしれないけどそれでも100人全員に分かってもらおうとする全般的なコンテンツと,100人中90人が分からないけど10人にはすごく共感するクラスタ的なコンテンツとがあって。もし各々がクラスタ的なコンテンツを見つけてるのなら,全般的なコンテンツはまだるっこしいんだろうと思う。

 

テレビや京アニは,今すごく大変だとは思うけど,なんとか耐え忍んでほしい。すくなくとも,何見たらいいか分からない自分にとっては疎外感を感じないコンテンツとしてすごく居心地がいいから……。

 

けど僕がこんなこと言うのも,結局僕は僕のクラスタを見つけられてないからなんだろって……。

 

作曲でも,2年くらい自分に居心地のいいクラスタを探そうとしていろんなジャンルの曲を作ろうとしてたし,ある程度定まってきたなってなった今も「誰が聴くんだ,コレ?」ってずっと思ってる。マジでたどり着く先を一切具体的にイメージできない。

 

相方のパセリとやってるラジオや動画も含めてそうなんだけど,僕は「この人たちに届けたい」っていうのが本当になくて,だから結構過度な内輪のノリになるんだろうな。

 

良く言うと,一種のメッセージボトルみたいに誰に届くのかも全く分からない偶然性を楽しんでいるって言えるけど,本当は「別に誰にも届かなくていいや」っていう方が近いような気がせんでもない。

 

そう思うと,本当に俺は自分以外の世界を思いやる想像力が無いって絶望する……。

 

けど,そうだとすると僕はテレビや京アニと真逆のところをいってるとも言える(そうか?)(そうだとしてもその2つと自分を並べることに少しでもおこがましいという気持ちはわいてこないか?)(わいてくる。マジで俺はクソ恥知らずのごみクズだ……)

 

少なくとも,そう思えればまだなにか救いもあるかもしれない。

 

巨匠マーティン・スコセッシ曰く「最も個人的なものが,最もクリエイティブなものである」

 

ずっと僕はこれからも自分にしか分からないものを作りつづけるんだろうな……。

 

幸いにも,今のところ僕の作るものが好きっていう人は現れてない。これは本当にありがたい。一生現れないでくれ。

 

誰にも届かない声があることは、果たして声にとって不幸なことなのか。

 

できるならこのメッセージボトルが誰にも届かず海の水面を漂い続けることを。