20200802
仕事だ。
仕事行ったら仕事がなかった。
マジか。
仕方ないから他の仕事した。
久しぶりに英語を読んでる。
おもしれぇ~。「そうなんだよな,俺が言いたいことってそうなんだよ」ってことを読んでる間ずっと思う。
なんか,仕事でも趣味でもそうなんですけど
最近「あっ,どうやらこれより先はもう先人がいないぞ」っていうことをなんとなく感じる。
手を動かして作品作って,それを精査してもう一回作って……という作業をやっていくと
はじめは「この人のような作品を作ろう」とかって感じに作ってたのが
どんどんオリジナリティというか,「俺はこの人の作品の中でも,この部分が一番好きやねんな」みたいなところがハッキリしてきて
そういったところを突き詰めた作品を作っていくと
始めあったはずのお手本というか,そういった参照先もなくなってしまって,完全にこっからは俺自身で見つけていかなあかんねんなっていうところに到達してしまうというような
そんな感じを最近ずっと覚えてる。
まあ,実際にはまだ僕の先にも何人かいて,その人たちのようなレベルに追いつくところを目標としてるけれども
多分,このままのペースで行くとあと3年,早ければ2年で誰もいないところに抜け出てしまうような気がする。
多分そこからなんでしょうね,勝負は。
この「前に誰もいなくなった」っていう感覚は,なんというか,ぼくが「記号論的差異」って勝手に造語を作って言ってるオリジナリティとはやっぱり違ってて
「記号論的差異」って言うのは「AじゃなくてB」「Aじゃなくて1」というような感じで
オリジナリティを「他とは違う」という差異に求めることによって担保しているものを,僕は「記号論的差異」って勝手に読んでるんですけど
それって結局「隙間産業を狙え」みたいな,そういったものになるんだろうなって。
それはマーケティング戦略としては非常に重要なポイントだと思うんだけど,「創作」という領域においては必ずしもそうではないように思える。
程度の差はあれ「創作」という行為というか,何かしらの営みをずっと続けていると,はじめは模倣というか,そういったところから始まったものが,本当にオリジナリティを持つものに自然と洗練されてゆく感じがずっとしてて。
それは「オリジナリティを作っていく」というものじゃなくて,「オリジナルになる」という感覚に近いっぽい。
つまり創作という分野においては「AじゃなくB」といったように異なる記号を用いることによって,他とは違う≒オリジナルということを証明するのではなく
むしろ帰結するのは「新しい記号を作る」という意味でのオリジナリティなのではないか
というのを感じる。
すると,結局のところ「○○に似ている」っていう反論は「記号論的差異」としては効力を発するのだろうけれども,創作におけるオリジナリティとしては全く的を射ていないように感じる。
その人がオリジナリティを発揮した結果,誰かの作品と似るのは「結果」の部分だけを見るとそうなるのであって,そこまでのプロセスや細部には差異が生じている(もしその人が「記号論的差異」によって作品を作っているのではないのなら,の話だけれども)
何を言いたいのかよくわからんくなってきたな
え~っと
というか最初っから言いたいことなんてなかったということを思い出した。
なんかどうでもよくなってきた。
この話,もうここでやめてもいいですか?
久しぶりにビール飲んだ。
久しぶりに飲むとうめぇ~。
全然酔って普通に眠くなったけど,パセリとディスコードで通話しながら絵を描いた。
俺この絵にどんだけ時間かけてんねやろ。
まあけど1カ月以内で完成したら上出来とちゃいますのん?
描いてるうちに時間短くなったらええな。
ポーズマニックスの練習はずっと続いてる。
大体1日70体ぐらい描いてる。
ちょっとずつ時間間に合うようになってきたな。
とりあえず,10秒設定にして早く形をとることを心がけてる。
まだ振り返ってみても「あ~これ形取れてない」「この線からは全体の人物像が分からない」みたいなやつも多いけど,それなりに元画像がどんな感じだったのかわかるようなクロッキーも増えてきた気がする。
まだもうちょっと続けて安定して形がとれるようになったら時間延ばしてある程度の細部まで描けるようになりたいな。
次の日朝から歯医者だったから寝た。