読んだ本について語る時に僕の語ること#1

完全に名前負けをしているタイトルをつけてしまった。

 

まあええわ。

 

読んだ本がたまってきたんで備忘録をちゃんとつけようと思った。

 

前までは読書メーターに読んだ本のリストをつけてたけど,なんか一度ログアウトされてIDもパスワードも分からんくなって入れんくなってしまった。

 

 

 

 チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』

死をポケットに入れて (河出文庫)
 

 憧れの文体っていうのがあって,それが僕にとってはブコウスキーの『パルプ』っていう小説の文体なんです。

 

「ああいう文章書けるようになったら人生つらいだろうな」ってずっと思ってる。

 

この本はアメリカ文学界の無頼派であるブコウスキーマッキントッシュを手に入れて,習作のように日頃のあれこれを書く……なんかエッセイ的なやつ。

 

ファンが家に来て,競馬に行って,酒を飲んで,変な人たちと絡んで,体調が悪くなって,競馬に行ってってことを書いてる。

 

そういえば昔,ブコウスキーが好きでずっと読んでた友達が,最近ずっと「なろう系」のアニメばっかり観てるって言ってたけど,アレは一種の競馬かアルコールなのかな。

 

 

 

S. J. ローザン『冬そして夜』

 昔,地元の高校の校長が全校集会の時に「野球部の地区予選は他の部のインターハイより重要」みたいなこと言って,体育教師の方が思わず「そんなわけあるか」って言ってしまった話を聞いたことがあるけど

 

結局,高校の時も野球部とサッカー部が強くて,で他の運動部がそれに続いて,最後に卓球部と文化部みたいな感じの序列なかったですか?

 

まあ僕の高校はそこまでそういったスクールカースト的なもの強くなくて,それなりに楽しくはやってたんですけど……それでも感じるんだからひどいところはマジでひどいんだろうな。

 

あらすじなんですけど,ニューヨークで私立探偵してる主人公のところに警察から,長年会ってなかった甥が近くで補導されてるっていう電話が来て

 

それで身元引き取りに来たんだけど,甥はなんで急にニューヨークに来たのかとかそういったことを主人公に全く喋らないまま逃げ出しちゃって

 

心配になった主人公は甥の母親(主人公の妹)が住む町へと調査に乗り出すんだけど,アメフトが盛んなその町には実は奥深い闇があって……

 

って話。

 

最後の解説のところで,コロンバイン高校の銃乱射事件が触れられてて

 

マイケル・ムーア監督の「ボーリング・フォー・コロンバイン」はそのコロンバイン高校の銃乱射事件を基にしたドキュメンタリーなんだけど

 

その作品はアメリカの「銃社会」の側面を描き出したけど,アメリカのマチズモ的な側面やホモソーシャル的な側面が事件に及ぼした影響は描いていなかった。

 

だから,コロンバイン高校事件のスクールカーストが引き起こした側面は軽視されているけれども,この作品はそういった「ジョック(体育会系のリア充)」に虐げられてきた「ナード(オタク)」が起こした悲劇という側面を作品として昇華させている。

 

ジャンルはハードボイルド・ミステリーです。僕は好き。

 

 

 

 ハリイ・ケメルマン『九マイルは遠すぎる』

 僕,海外のミステリーが好きで特にハードボイルド小説は結構読むんですけど

 

いわゆる本格推理小説はそんなに読むほうじゃなくて

 

クイーンもクリスティもカーも数冊しか読んでない。

 

けど,この本を手に取った時はなんか面白い短編推理小説が読みたいなって時だったから,もはや古典みたいな風格になってるこの本をジュンク堂で買った。

 

いや,面白いっすよ。普通に。オチとか,ギリギリ真相にたどり着けない感じで「あっ,そっか,そういうことか……」ってなる。

 

一話も短いから飽きずに読み通せるし。

 

特に表題作が良い。

 

主人公が何気なく言った「九マイルは遠すぎる」といった言葉から,どのような背景が想定できるか……みたいなことを話してるうちに,もっと大きな謎に突き当たってしまったっていうのを短編でやるっていう離れ業。

 

あとから気づいたけど,これ米澤穂信先生が「氷菓」シリーズの中の一篇でこの小説を下敷きにしてた。

 

あと個人的には最後に収められてる短編が(名前忘れたけど)一番好き。

 

 

 

デイヴィッド・ゴードン『二流小説家』 

 なんか何年か前のこのミステリーがすごい海外小説編の1位を取ってたはず。

 

けど,ネットの評判はそんなに良くなくて,周りにも読んだ人がいなかったから

 

家にあるのにずっと読んでない本だったんだけど

 

いざ気が向いて読み始めたら,まあ面白かった。

 

ミステリーとして読むともしかしたら肩透かしになるのかもしれないけどエンタメ小説と思って読んだら普通に面白いですよ。

 

特に僕は文体が好き。著者が長らくアダルト雑誌とかで編集してたり執筆してたこともあって,すごく軽快で下卑た文章を書くからいい。ニューヨーカーには絶対掲載されないような文体。

 

あらすじは,売れない二流小説家のところに死刑執行間近の連続殺人犯から手紙が届く。殺人犯は,自分のファンだという女性のところに主人公が行ってインタビューをしてそれをもとにポルノ小説を書いてくれれば,代わりに警察にも言わないままだった事件の真相を明らかにするという。

 

主人公は悩みながらもその仕事を受けてインタビューをもとに小説を書いて渡して……ってことを進めていくんだけど

 

そんな主人公に突如,息を呑むような事件が起こる……って感じ。

 

話のスピードはゆっくりしてるから,ミステリーのドキドキを楽しみたい人には冗長に思えるかもしれないけど,僕はさっき言ったように文章がめちゃくちゃ好みだったから全く気にならなかった。

 

あと,ふざけたような話が出てきたと思ったら突然とんでもなくグロいシーンが入ったりするからいい意味で驚かされる。

 

あとキャラクターが最高に良い。みんなめっちゃ好き。(けど真犯人はめちゃくちゃ怖い)

 

 

 

アガサ・クリスティー『五匹の子豚』 

 さっきも言ったんだけどクリスティーは何冊か読んだんだけど……

 

元々僕ははじめあんまりミステリーが好きじゃなくて

 

というのも中学生ぐらいの時に『オリエント急行殺人事件』読んだんですけど

 

そのオチとトリックを読んで「なんじゃそら!」みたいになって,それ以来ミステリーを避けてた。(あと名探偵コナンでコナン君が犯人に説教しだすのを見るうちに「この子,『正義の人』じゃん……」って感じるようになったのもあって探偵っていう役柄を微妙に嫌ってた。大体において探偵よりも犯人の方が人として魅力的だったりしませんか? そんなこと言ったら怒られるかな)

 

まあ,それからいつの間にかミステリーも読むようになったんですけど,アガサ・クリスティーはあんまり好きになれないままだった。「そして誰もいなくなった」はミステリーランキングで1位になるくらいめちゃ有名な作品ですけど,キャラに全く思い入れができないまま終わったので「脚本そのままを読まされたみたいだ……」って思った(失礼)

 

けどこの作品は全然有名じゃないんだけど今まで読んできたクリスティ作品だとトップレベルで面白かった。めちゃくちゃキャラが立ってる。登場人物がみんな魅力的。

 

僕はやっぱ真犯人のキャラとかすごいよかったなって思った。

 

あらすじ……あらすじなんですけど,上手く喋れるかな。

 

名探偵ポアロのところに若い女の人が依頼に来て,いわく「私の母は父を殺したとされてるんだけど,獄中で亡くなった母から届いた手紙には自分が夫を殺したわけではないという訴えがあった。どうか真相を調べてほしい」と言うので,調査に乗り出すと……。

 

って話。

 

ちなみに僕は見事に真犯人の推理を外しました。

 

 

 

 貴志祐介『黒い家』

黒い家 (角川ホラー文庫)

黒い家 (角川ホラー文庫)

  • 作者:貴志 祐介
  • 発売日: 1998/12/10
  • メディア: 文庫
 

 あれ?これ読んだの,ちょっと前っぽいな。

 

めちゃくちゃ面白かったから最近読んだっぽく思ってたけど。

 

ホラーなんですけど,心霊系とかじゃなくてサイコホラー。

 

保険マンの主人公は保険加入者の男から自宅に呼び出され,その家で子どもが首をつって死んでいるのをこの目で見る。主人公はその惨状をみて他殺ではないかと思い,その旨を警察に伝え,保険金の支払いも保留するが,男は子どもの保険金を求めて毎日来るようになり,そのうち男は主人公の目の前で自分の手を血が出るまで噛み切ろうとするなどの常軌を逸した行動を示すようになる。男の行動を異常に思った主人公は心理学の教授にプロファイルを求めたり,男の妻に対して夫に気を付けるようにといった警告をする。しかし,それ以降主人公はより悲惨な光景を目にすることになる。

 

ってな感じのあらすじ。

 

だいたいのあらすじを知ってて読んでたんですけど,いや普通に怖い。

 

特にラストシーン近くとかだと怖すぎて1ページ読むごとに深呼吸して心落ち着かせてから続きを読む…みたいになった。

 

友だちの家に遊びに行ってるときに読んだんだけど,面白すぎて友だちほったらかして読んでしまってた。

 

そん時は僕入れて3人で鍋食べたんですよ,キムチ鍋。

 

おいしかったな……。

 

普通に怖いんで,読み始める前に部屋の鍵はちゃんと閉めた方が良いですよ。

 

 

 

 横山秀夫第三の時効』『半落ち』『クライマーズ・ハイ

第三の時効 (集英社文庫)

第三の時効 (集英社文庫)

 
クライマーズ・ハイ (文春文庫)

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

  • 作者:横山 秀夫
  • 発売日: 2006/06/10
  • メディア: 文庫
 
半落ち (講談社文庫)

半落ち (講談社文庫)

  • 作者:横山 秀夫
  • 発売日: 2005/09/15
  • メディア: 文庫
 

 横山秀夫先生の文体,僕好きなんですよね。

 

めちゃくちゃ感覚的なこと言いますけど,日本人の書いた文章って,文豪と言われる作家さんでも,なんか,「べちょべちょ」してる文体の人が多くて,それがあまり好きじゃないんですよ,個人的に。

 

けど横山先生の文章は硬く乾いてて,読んでて凄く気持ちいい。そのうえ読みやすいし,話もめちゃくちゃ面白い。警察小説っていうか……いわゆる男の世界って感じですね。

 

 この上の3冊は全部横山先生の代表作っていわれるくらいめちゃくちゃ面白い。

 

特に『半落ち』は 読み終わった時ちょっと泣いちゃった。

 

半落ち』ってたしか,直木賞候補だったんですよね。けど,この物語の根幹にある設定が現実だと起こりえないってことを北方謙三先生が言って,まあそれで終わればいいんですけど,林真理子先生が「こんな設定ミスを見逃すだなんて,ミステリファンの人はそんなことさえ気にされないのですね(意訳」的なことを言ってしまい,さすがに作品をけなされるだけならともかくファンまで馬鹿にされてはたまらんということで横山先生は以来直木賞とは決別されておられるといった文学界の珍事件を起こした異色作でもあるわけなんですけど。

 

けどその時にどうやら横山先生が「今まで窮地に追いやられても矜持をもって次の一歩を踏み出す姿を描いてきたのに,今回のことをただ黙って見過ごして次のチャンスを待ってしまうような姿勢では読者の人に申し訳が立たない」と仰られてたのは凄くカッコよかったと思いますね。

 

ところで,この『半落ち』の総評で「犯人が良い人過ぎてリアリティに欠ける」って言った選評者の先生がいらっしゃったと思うんですけど,僕は「いるよなあ,こういう人……」って思いながら読んでました。

 

何がリアルなのかって分からないものですね。

 

 

 

米澤穂信『春季限定いちごタルト事件』『夏季限定トロピカルパフェ事件』

春期限定いちごタルト事件 (創元推理文庫)

春期限定いちごタルト事件 (創元推理文庫)

  • 作者:米澤 穂信
  • 発売日: 2004/12/18
  • メディア: 文庫
 

 アニメ化された古典部シリーズで有名な米澤穂信先生の作品ですね。最近は新刊を出すと「このミス」のランキング上位に必ず入るぐらい人気作家さんで。

 

米澤先生の中では結構初期の作品……なのかな。わからんけど。

 

上でも言ってたんですけど,ミステリの短編を読みたい欲がすごく高まってた時期があって,そのとき読んだ。

 

あらすじ…いや,短編のあらすじって難しいな。まあ青春ミステリって感じでした。雑すぎるか。けどパパッと読めてしまうから,気になるようだったら読んだ方が早いような気がする。

 

周りの人から『夏季限定……』はすごいよって聞いてたんですけど,僕個人的には1作目の『春季限定……』の方が好き。

 

あとミステリ読んでる人はミステリ脳になるっていうのは凄い良くわかる。日常に謎ってホンマいくらでも転がってるし,それを考えるだけで時間すぐに溶ける。

 

 

 

北村薫『空飛ぶ馬』

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

  • 作者:北村 薫
  • 発売日: 1994/03/27
  • メディア: 文庫
 

 上の『春季限定…』『夏季限定…』も殺人事件とかの刑事事件じゃなくて日常生活にある謎を解く,いわゆる日常系ミステリって呼ばれるものなんですけど,北村薫先生の『空飛ぶ馬』はその嚆矢だったそう。

 

女子大生の主人公が出会う謎を落語家の円紫さんが解いてゆくって感じのストーリーが何作か収められた短編集

 

キャラとかもすごく立ってていいですよ。まあちょっと時代的なものを感じたりとかもするんですけど……。

 

僕の好きな短編は,喫茶店で後ろの席に座る客が紅茶に砂糖をバカみたいに回し入れ続ける「砂糖合戦」ですかね。オチがサイコー。

 

あと,このシリーズ全部で6作ぐらい出てるんですけど,なぜか巻を進めるごとに表紙の主人公のイラストがどんどん抽象画チックになっていくんですけど,これなんで?

 

 

 

村上春樹風の歌を聴け』『回転木馬のデッドヒート』

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2004/09/15
  • メディア: 文庫
 
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2004/10/15
  • メディア: 文庫
 

 村上春樹先生は瀟洒な文体にばかり注目が行きがちだけど,人生にビルドインされている悲しみを描くのがめちゃくちゃに上手い,というか上手い下手のレベルじゃない,圧巻。

 

人生にビルドインされてる悲しみって言うのは,たとえばお金がないとかスマホ落としたとか殴られたとか上司が厳しすぎるとか仕事つらいとか,まあいろいろあると思うんですけど,そうじゃなくてもう人生として避けられない悲しみというか

 

それは例えば「死」であるし「老い」であるし「別れ」であるし「出会い」ですらある。

 

人間だれしも親を選べないまま生まれてきて,その瞬間から老いて死ぬ運命が決まっている。

 

どれだけ自閉的に生きようとも人はそれまでの歴史(親やそのまだ先の先祖,生まれた場所,時代)を避けて通れないし,その過程で会う人を避けられない(避けることもできるだろうけど,そういった他者からのメッセージをキャッチできないと何か大切なものを知らずのうちに失ってしまう。なぜならメッセージはキャッチするまでその内容がわからないから)

 

そういったこの世で生きる際にあらかじめ埋め込まれている悲しみを描くことに対して村上春樹は天性の才能をもっていると思う。

 

だからかもしれないけど,村上先生の小説を読むと僕はいつも少しだけ悲しくなる。

 

風の歌を聴け』は村上先生の処女作。作者本人は力量が追い付いていなかった時代の作品だからっていうので翻訳が長らくされてなかったらしい。確かに言われると,後の村上作品と比べるとごつごつしてるなって感じもあるけど,僕はそれを含めて好きだったりする。ちなみに鼠シリーズだと僕が特に好きなのは『羊をめぐる冒険

 

回転木馬のデッドヒートは村上春樹の短編集の中で一番好き。実際に会った人たちの話を描いているっていう,そういう設定(か,もしかしたら本当にそうなのかもしれない)なんだけど,読んだ後にいつもちょっとした寂しさを感じる。僕が好きなのは「プールサイド」っていう短編。そういえば,東浩紀先生が『クォンタム・ファミリーズ』の中でこの作品に触れてたなって今思い出した。

 

 

 

東浩紀『一般意思2.0』

 そういえば読んだなっていうのでこれも今思い出した。

 

民主主義はちゃんと話し合うことを前提としているけど,日本人は熟議が苦手。じゃあどうしたらいい?というので東先生が復刻した概念がルソーの「一般意志」というもの。

 

東先生は,このルソーの言う「一般意志」というものが現代におけるテクノロジーの発展により可能になっているのではと言うのがめちゃくちゃざっくりした論旨。

 

一般意志っていうのは,人々がなんとなく考えている事柄というものが集積されひとつの形をとったものとされているという点で,はじめユングの「集合的無意識」の概念に近いのかなと思ったけど,そうではないらしい。

 

ルソーの言う「一般意志」はいわゆる「空気」に近いものとされているのに対し,ユングの「集合的無意識」は人間にあらかじめビルドインされていて,人々に影響を与えているものという感じ。

 

「一般意志」は人々の無意識の集積から生まれうるものだけど,「集合的無意識」は人々の背景因子として存在する。影響と原因というか,統計学でいうところの主成分分析と因子分析の違いみたいな感じっぽい。わからん。知らんけど。

 

じゃあ,その空気の可視化はどのようにできる?というのがGoogleをはじめとしたインターネットだと東先生は指摘する。

 

インターネットはそのログが基本的に残り続ける。そういったネットの海を漂うビッグデータを集積し,統合することで「一般意志」を眼前に示すことができるのではないか?

 

「けど,それだとただのポピュリズムになりそう……」と僕はこの時に思ったのだけど,東先生はこれを「決定」ではなく「制限」に使うという。

 

つまり,「空気」が政策などの決定をするのではなく,政策を定める者が無思慮を防ぐために「空気」を可視化する。「一般意志」は政策を制定するのではなく,権力者に制限を与える。例えばマイノリティの「空気」を無視して政策決定をすることを防ぐなど。

 

(本来であれば,それを選挙によって行うべきなのだが,初めに戻るけども日本人は熟慮が苦手でそこの話し合いが平行線をたどりやすい。プラス今回のコロナ禍によって選挙を待たずしての火急の判断が必要な時代であることも明らかになったように思う)

 

つまり「それやるとヤバいよ…」の可視化をする,もっとフランクに言うと「空気読めよお前…」を可視化するような一般意志,それが東先生の言う一般意志2.0である。

 

まあ一読しただけで僕も全部の論旨を追い切れてるわけではないし,普通に誤読してる可能性も高いので,気になる人は普通に読んだ方が良いと思う。

 

というわけで,僕からの疑念として

 

人々の「一般意志」がGoogleをはじめとしたインターネットに集積された声であるとすれば,インターネットに声を放流しない人はいったいどうなるんだろう?

 

例えば,僕の両親はSNSをやってないしネットにめちゃくちゃ疎い。オカンに「YouTubeって,これタダなん?」と聞かれたときは,新鮮な疑問だなと逆に感心してしまった。

 

そういったネットに集積されない声を「一般意志」はどうやって代表することができるのだろう?

 

実際に,そういう東先生もTwitterのアカウントを消してしまってる。もちろん東先生ほどであれば著作も出てるし,誰かがそれを引用するだろうからネットの海に言論を放流できるだろうけども……。(っていうか,Twitterから東浩紀のアカウントが消えるなんて誰が想像してただろう)

 

ネットはツールであるが,ツールからのフィードバックによって人の精神も影響を受ける(でなけりゃ武道の志に精神論が含まれる理由もわからない。人の心は肉体や装置といったモノから必ず影響を受ける)

 

つまり,その「一般意志」なるものはネットをうまく使いこなす人やネットに親和性のある人,ネットをいやいやながらも使ってる人の声しか聞き取れないのではないか?ネットというツールに触れない,触りたくない人たちの意見はただ宙に消え去るだけなのか?その声は「一般意志」に反映されるのか?(統計学チックに言うと「その代表値は母集団から無作為抽出できた標本から算出されたものなのか?」と言えると思う)

 

多分,東先生はこの点を抜け落としてるわけじゃないだろう。もしかしたらこの本にそれへの答えが書かれているのに僕が見落としてるだけなのかもしれないし,以降の作品で言及されてるのかもしれない。

 

もし識者の方々でご存じの人がいれば参照先を教えてほしい。

 

 

 

 野田 努『ブラック・マシン・ミュージック:ディスコ,ハウス,デトロイト・テクノ

 この本については前にブログでちょっと書いた。

 

基本デトロイト・テクノを中心に言及してる。歴史的な変遷を終えるだけでなく,そこにあるドラマも肌に感じられる。特に後半になればなるほど文章に圧巻されていく。

 

ただ,実は僕はハウスに興味があってこの本を取ったので,もうちょっとハウスのことを詳しく知りたい。特にシカゴで生まれたハウスミュージックがどうやってイギリスへと渡り,レイヴカルチャーとなっていったのか,とかを知りたい。

 

こういったところを詳しく書いてある本,誰か知りませんか? 『HOUSE LEGEND』は詳しいっちゃ詳しいんだけど,ムック本って感じなので,もっと文章としてまとまった本が欲しい……。

 

 

 

 村澤和多里・山村貴則・村澤真保呂『ポストモラトリアム時代の若者たち:社会的排除を超えて』

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

 

 この本、一回Amazonマーケットプレイスから注文したんですよね。なんか、本体価格800円やのに、送料1500円ぐらいかかってて「ネバダ州から空輸でもされてくんのか?」って思ってたら、いつまで経っても商品が来んからキャンセルしたんですけど、その場合って運送費は返却されないみたいで。なるほど「新手の詐欺か……」ってなりました。

 

結局運送費も返してもらえたんですけど、詐欺っぽい人に住所とかの個人情報奪われたの厳しすぎるって思いました。

 

この本は社会学者と心理学者の方々が共著で書かれてて。

 

まずモラトリアムってのはあれですよ,アレ……。

 

急に説明求められると難しいな。

 

まあ青年が自らのアイデンティティを形成するまでの猶予期間のことです,簡単に言えば。

 

アメリカの精神分析家のエリク・エリクソン(すんげえ名前ですよね。オレ最初に知った時めちゃくちゃいい名前じゃん!!って興奮したんですよ。ちなみにミドルネームはハンバーガーなんですよ。エリク・ハンバーガー・エリクソン。めちゃくちゃいい名前だな……)が提唱した概念で

 

近代以前は若者は農家の息子は農家,みたいな感じで生まれ育ちで将来の職とかも決まってたんだけれども,近代は努力次第でなんにでもなれる(と建前上はされている)時代になったので,逆に青年たちは自分がどのように生きるのかをいろいろ悩んだり,実際に試行錯誤しながら「自分らしさ」「自分の行くべき方向」であるアイデンティティをモラトリアムのあいだに形成しなければならないといった背景があるんですね。

 

ただ,ポストモダンという時代とされる現代においては,エリクソンが言っていた近代のアイデンティティとモラトリアムとは異なる形に変容しているというのがこの本の趣旨。

 

じゃあ,どのように変容しているのか?

 

まず著者は「モラトリアムは消えた」と指摘する。

 

従来であれば,若者が新しい色んなことを試してみたり,無駄に思える方向へと回り道をしてみたり,時には誰かとぶつかったりといった行動は,「いずれ大人になる若者の成長過程で当然生じるもの」であり,いつかは大人になって社会の一員となるのだという視点から許容されてきた。これが「包括型社会」の考え方であると著者たちは語る。

 

けれども現在は違う。今は「排除型社会」という社会へと変化し,「問題を起こす若者や歩みが遅い若者は社会に必要ない」という名目ではじき出されてしまう社会へと変化した。問題を起こすリスクの高い若者はあらかじめ排除されるといった社会へとシフトしている。

 

そしてその排除のきっかけは常に増え続けている。犯罪はもちろん,フリーター,ニート,留年,ひきこもり,就職浪人などなどなど……。社会はそれをもはやモラトリアムであるとは受け止めてくれない。「自己責任」だと弾劾する。若者はそのような弾劾の声を少しでも自分から遠いものへと退けるために,つねに「ふつう」と見なされる基準を満たすべく努力し続けなければならない。

 

北山修先生が昔対談で言っておられたけれども「昔は電車に乗りおくれても気にすることなんてなかった。だって,電車は待っていれば来るんだから。けど今の子たちは違う。1回降りてしまうと,もう次の電車には載せてもらえないかもしれない。子供もそう思っているだろうし,親もそう思っているかもしれない」といった感覚が,確かに僕にもある。大学1年生のうちから資格勉強やインターンへと忙しい学生を見ると,よりそう思う。

 

若者はそういったリスクをできるだけ最小化するために粉骨砕身し,逆に取り残された若者はその責任を自分に帰して癒せないトラウマとスティグマを抱えて孤立する。

 

著者たちはそういった,若者が今現在置かれている環境について指摘し,そのために何ができるかを提言している。

 

僕たちが抱えている「もしかしたら自分は大丈夫じゃないかもしれない」という切迫感や「今更どうにもならない」といった諦観から癒されることはどのようにして可能なのか。

 

まあ,詳しくは読んでみてください。 

 

 

 

 涌井貞美『図解・ベイズ統計「超」入門』

 先輩に薦められて読んだけど,読んだ先から内容全部忘れた。

 

 

 

 ミシェル・フーコー『知への意志(性の歴史Ⅰ)』

知への意志 (性の歴史)

知への意志 (性の歴史)

 

フーコーは僕のあこがれの哲学者なんですよ。

 

マジで初めてフーコーの思想に触れたときは髪の毛全部抜け落ちるかと思いましたからね。

 

ていうか、もう僕の思考回路はフーコーの思考を通さずに考えることができなくなってると思う。そんぐらい尊敬してる。

 

けど、フーコーの著作はめちゃくちゃ難しい。何言ってるんかマジでわからん。あと高い。だれか『言葉と物』と『狂気の歴史』と『監獄の誕生』を僕に買ってくれません? ちゃんとお世話するんで。

 

けど、この本は僕でも読み通せるぐらいの難しさ。もちろん難しいんだけど、ちゃんと時間をかければ読み通せるぐらいの本。

 

あらすじとしては……

 

いや、僕にこの大著のあらすじなんて書けるのか?

 

まあできるところまでやってみよう……。

 

フーコーはずっと『言説』と『権力』に焦点を当ててきた哲学者だけれども、この本では「性」に焦点を当てている。

 

で、精神分析をはじめとして西洋思想は「性」を抑圧されてきた存在としてとらえている。

 

けれどもフーコーは違うと、むしろ「性」について語るように我々は扇動されてきたのだと言う。

 

(イギリスのヴィクトリア朝時代に入るとブルジョワ階級の人々が語る性の言説が 増えたように)

 

その理由はなぜか。それは権力の形が変容したからだとフーコーは指摘する。

 

つまり、古代であれば王権は確かに悪さをした者の命を刈り取るようなものであった。

 

しかし同時に死は限りなく私的である。王権の手が届かないほどに(だから古来、自死は罪であった)

 

しかしそれが近代では変容した。つまり、死を与えるのではなく生をコントロールすればより効果的なのだと。

 

ではそのコントロールはどのように表れるのか?それは1つは身体、1つは人口である。身体と人口、そのどちらにも介在するのが「性」である。「性」は以後、いろんな学問分野で詳細に語られるものになった。人口統計学、生物学、医学、精神病理学、心理学、道徳、教育学、政治批判……。

 

であるからこそ「性」は秘匿するものではなく、明らかにされなければならない。

 

「一つの至上命令が出されたのだ。おきてに違反する行為を告白するだけではない、自分の欲望を、自分のすべての欲望を、言説にしようと努めるべし(p.29)」

 

それは逆説的に「主体」を生み出す……。

 

そして監視する権力強化は、監視を潜り抜ける快楽の強化を導き、さらなる監視の強化を生む。

 

「性」は抑圧されているのではない。むしろ語らされている。主体は存在せず、権力がある。

 

……っていう感じか??? どうなんだろう。わからん。僕も全然わかってないところの方が多いと思う。というか絶対そう。

 

けどTwitterとかpixivとかで自ら性癖をさらしてる人を見たりすると、なるほど,確かに我々は語らされている……とか思う。

 

 

 

 

 ニーチェ善悪の彼岸

善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)

善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)

 

 ニーチェは何冊か読んだ。多分「この人を見よ」と「ツァラトゥストラかく語りき」の2冊を読んだ。

 

ツァラトゥストラ…」は物語り形式で結構読みやすかったな。冒頭の曲芸師が綱渡りの高所から落ちてしまったシーンは結構胸が震えた。

 

あと終盤に,洞窟の中でツァラトゥストラがみんなに「神は死んだんだよ」って言って聞かせたのに,ツァラトゥストラがちょっと洞窟の外に行ってから戻ってきたら,みんなが洞窟の中にいたロバに向かって礼拝したり讃えだしたりしてて,ツァラトゥストラが「みんな話聞いてたぁ!?」って怒るシーンは笑った。

 

この本は「ツァラトゥストラ…」を引きついだテーマで書かれた本みたいなんだけど,アフォリズムの形式で書かれてて,一文一文は読みやすいんだけど,話がくみ取りにくい。

 

やっぱり「道徳の系譜」も読まなきゃダメっぽいって思った。

 

けどアフォリズムだからこそのパンチラインもいっぱいあって良さがある。

 

「ある人の高貴さをみることを望まない者は,その人における低劣なもの,目立つものに,それだけに鋭い目を向けるものだ。――そしてそのことによって自分の正体をさらけだすのだ(pp.447-8)」

 

けど,ときどき笑えんレベルの性差別とかレイシズムとか出てきて微妙に胸が苦しくなった。あれって,哲学研究者の方々の中でどう捉えられてるの?

 

わからん。詳しい人だれか,教えてほしい。

 

「愛によってなされたことは、つねに善悪の彼岸にある(p.188)」

 

 

 

 江藤 淳『成熟と喪失:”母”の崩壊』

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

  • 作者:江藤 淳
  • 発売日: 1993/10/04
  • メディア: 文庫
 

 去年読んだ評論の中で抜群に面白かった。いやマジはよ読んどきゃよかったって思った。

 

敗戦という経験とアメリカによる文化的な支配によって、日本において「父の欠落」が生じた。

 

解説の上野千鶴子先生の言葉がわかりやすい。

 

「息子にとって、父は母に恥じられる「みじめな父」になり、母はその父に使えるほか生きる道のないことで「いらだつ母」になる。だが、息子はいずれ父になる運命を先取りして父を嫌悪しきれず、「みじめな父」に同一化することで「ふがいない息子」になる。「いらだつ母」をその窮状から救い出す期待に応えられないことで、息子はふかい自責の念を内面化する。同時に息子は「ふがいない息子」であり続けることで、母の支配圏内から自立しないという母の隠れた期待に共犯的に応えていることを、ひそかに自覚している。これが「日本近代」に固有な、ねじれた「エディプスの物語」である。(p.258)」

 

加えて上野先生は

 

「娘は「みじめな父」に同一化する必要はないが、息子のようにそのみじめさから自力で抜け出す能力も機会も与えられていない。自分を待ち受けている人生が、しょせん思うようにならない男にあなた任せのかじを預けて、「いらだつ母」のようになることだと観念するせいで、「不機嫌な娘」になる。息子は娘と違って「いらだつ母」に責任も同情もないから、この不機嫌にはいっそう容赦がない。(p.259)」

 

と語る。

 

う~ん。実際に見たこともないくせに、なぜか目に浮かぶ光景である。

 

詳しくは実際に読んだ方が早い。ので、僕の好きなところを。

 

「……なぜなら「成熟」するとは何かを獲得することではなくて、喪失を確認することだからである。……拒否された傷に託して抒情する者には「成熟」などはない。……「成熟」するとは、喪失感の空洞の中にわいてくるこの「(自ら,自分の母を捨てたことの)悪」をひきうけることである。実はそこにしか母に拒まれ、母の崩壊を体験したものが「自由」を回復する道はない。(p.32)」【()内はブログ筆者注】

 

 

 

 内田 樹『困難な成熟』

困難な成熟

困難な成熟

  • 作者:内田樹
  • 発売日: 2017/11/24
  • メディア: 文庫
 

 5年くらい前から、自分がもう子供ではない(というか子供で居続けるのはさすがにヤバい)ということを意識するようになったんだけど

 

「じゃあ大人って何ですか???」っていうこともかなり意識し始めた。意識し始めたというか、めっちゃ悩んでる。大人って何?

 

わかんない。大人って……

 

おとな……。

 

ばぶばぶ……。

 

マジでこんなこと↑言ってる段階で大人としての資格がない。

 

けれども,ポストモダンっていう言葉に逃げるのは安易すぎるけれども「価値観が多様化したから目指すべき成熟像なんてないんだよ」なんていうニヒリズムを採用したくはない。それはあまりにも責任を回避し続けているということは僕にでもわかる。

 

村上春樹が「文化的雪かき」といったもののように,自分の仕事ではないけれども誰かがやらなければいけないことがあり,それを引き受けることが成熟した大人の仕事だと思う。

 

(「しらね~。そんなの俺の仕事じゃね~~」って言うのは勝手だけれども,僕はそういう子供っぽい人と一緒に仕事をするのは,ちょっと嫌だなって思う)

 

誰かが雪かきをしなければ,みんなの生活が雪で立ち行かなくなるように,誰かが自分じゃない部分にまで責任を取らなければならない。

 

江藤淳先生が言っている通り,日本人は敗戦以降,成熟への道を閉ざされた人たちなのかもしれない。子供っぽい人が増えたなだなんて,言いたくはないけれども,けれどもそう思ってるのはどうも僕だけじゃないらしい。

 

誰かが大人にならなければならないし,それなら僕は大人になりたい。

 

少なくとも,雪の重みで潰れてしまうことがわかりながらも崩壊を待ちながら暖炉近くで暖まり続けるのは性に合わない。

 

だから僕は誰よりも先に炬燵から出るし,みんなの分のミカンまで持ってきてあげる人間になりたい。

 

 

 

 

最近読んだ本だと大体こんな感じっぽい。あとは専門書を何冊かくらい。

 

かなり書くのに時間かかったから,今度からはもっとこまめに備忘録付けんとしんどいなって思った。

 

 あと、ニーチェとかフーコーの感想を書くの、俺には役不足が過ぎる。バカみたいなパルプフィクションばっかり読んで「ピストルがいっぱい出てきて,たのしかったです」みたいなトレーシングペーパーみたいにうっすい感想が言いたいのよ、俺は。