20200430
「正論で殴るな、冗談で薙ぎ払え」
昼頃に起きた。
コーヒーと、フレンチトースト。
全然やる気が出ねえ。
なんとか20時までに仕事を終わらせる。
zoomでうなぎとパセリとで飲んだ。
パセリと3時ぐらいまで喋ってた。
なんとなく両者で了解が取れたのが
「我々は政府やシステムが自分に何かしらの補償をしてくれるとは全く期待していない」
ということだった。
ただ、それは「政府やシステムが親しい人に何かしらの補償をしてくれることを期待していない」
ということではないということも分かった。
では僕はどのようにシステムに語りかければいいのだろうか。
まだまだ取るに足らない年月の中で、自分が学んできた数少ないことの一つが「言葉を聞く者には敬意を持つ」ということだった気がする。
自分の音楽を聴いてくれる人と同じように自分の言葉を聞いてくれる人に敬意を持つこと。
「どうか聞いていただきたい」と思いながら、言葉を放つということ。
権威や地位、社会的文脈や年齢といった社会的要素ではなくこの世に実存している存在同士として語りかけるということ。
目の前にその人がいたときに、より真摯になれるような言葉を用いること。
他者をコントロールするのではなく認める言葉を紡ぐこと。
「歌」が「訴える」ことであるなら、「訴える」ことの中にも「歌」があるということ。
パセリは、人生というものが袋の中から正解の白い球と間違いの黒い球を抜き取ることだとすれば、できることはその袋の中に入っている白い球の数を増やすしかないという。
前半の部分には賛成。
けど僕は実際のところは白っぽい黒や黒っぽい白の球を手に取ることになると思っている。
真っ白の玉なんてこれから取ることがあるのだろうか。
意識の上では僕はもうひどく年老いてしまった気がする。
玄関の鍵を開けるときや、3番ホームで電車を待つとき、家の近所の夫婦でやっている定食屋で注文を頼むときに
以前までは面影さえなかった死という存在が視界の隅を占め始めたことに気づき始めた。
脱線しかけている。
真っ白な球がないように、真っ黒な球もない。
物事を一側面だけでとらえたくない。
システムが我々を画一的にみるように、我々もシステムをみる視線は画一的になりやすい(気がする)。
強い言葉は弱い人を集め、その結果強いシステムとなるのであれば、ぼくは強い人にならなければならない。
いつからかどれだけの想像力を働かせられるかが自分の成熟度の指標になっているように思えてきている。
自分とは違う人が、起きて、目覚まし時計を確認し、歯を奥歯から順に磨き、顔を洗い、食事をし、服を着替え、かかとを靴に収め、バスのIC読み取り口にカードをかざし、働いて、また働いて、さらに働いて、家に帰って、靴を脱ぎ、食事をし、脱いだ靴下を裏返して洗濯機に入れて風呂に入り、歯を奥歯から順に磨き、そろそろ夏蒲団を出さなければなと思いながら寝床にはいるまでをきちんと想像できる人間になりたい。
貧困を貧困ということばで捉えたくない。
3日後のこともわからずにベッドの上で泣く大人や、自分以外の責任で繋がれた鎖でどこにも行けなくなっている青年、愛していると言われながら腕に火傷の跡を増やし続ける子どもの姿を思い浮かべたい。
戦争という言葉を聞くときに、シリアで爆風に髪をなびかせる顔の汚れた少女や、原爆によって肌を溶かされ死までの時間を今か今かと待ち望まなければならなかった日本人、関東軍によって井戸に突き落とされその上から手りゅう弾を投げ込まれた中国の農民の姿をちゃんと思い浮かべたい。
自分の言葉を受け取る人の姿やその言葉がどのような意味をその人に与えてしまうのかわからないまま言葉を紡ぎたくない。
論理や感情を刃として使いたくない。
誰かが目の前で怒鳴られたり殴られたりしていることに対して異議を唱えたい。
そして、できるならば目の前だけでなく見えていないところにいる人のことを想像できる大人になりたい。
歌を歌うように言葉を紡ぎたい。